2019年02月03日

太陽と月の詩 NO.223 巻頭言

点から線、そして面へ

岡山県総社市立石憲利

今年(二〇一八年)は、岡山県語りのネットワーク結成十周年という節目の年です。

私は、若いころから昔話の調査をしていて、次第に採録が困難になっていくなか、「これでは昔話は消えてしまう」という危機感を持つようになりました。自分も語り手になろうと、地元の小学校で昔話の語りを始めました。たいそう子どもたちに喜んでもらえ、次第に語りの要望が広がり、一人では対応できなくなりました。

「語り手を増やそう」と、早速、語り手養成のための講座を開催。何回か開きましたが、子育て中のお母さんを対象にしていたため、なかなか講座に出席できず失敗に終わりました。私が勤めを定年退職した二〇〇〇年から「立石おじさんの語りの学校」として再挑戦。時間的に余裕のある退職者、子育ての終わった女性を対象にし、やっと語りのグループ結成にこぎつけました。次々に学校を開き、グループができてきたのでネットワーク化しようと、二〇〇八年に、九グループ(五十人)で岡山県語りのネットワークを結成しました。

語りを始めたときから、一人では力がない、語りの輪を拡げるため、点から線、そして面にしていこうと目標を立てていましたから、一応目標の一端に到達できました。その後も語りの学校の開催に力を注ぎ、今年で二十九グループ(約三百人)になりました。当面は、県内の全自治体にグループを作ることを目指しています。

二〇一七年度に、各グループが語った話を聴いてくださった人は、のべ六万七千人でした。これも早期に十万人達成を目指します。

ネットワークでは、@岡山県の民話を中心に語る。A本を丸暗記しないで、自分で再話し、自分の言葉(方言)で語る。B語りには前ぶれ(落語の『つかみ』)を入れ、聴き手に心の準備をしてもらう。C民話は、語り手と聴き手の共同作業の産物であり、一方的に語らない。D民話全般についての理解を深めていく―などを目指しています。

今日までの活動では、公民館、図書館、教育委員会の協力が大きな力になりました。これら機関の協力をどう取り付けるかが、一つの課題です。

(たていしのりとし会員・岡山県語りのネットワーク)

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2018年11月06日

太陽と月の詩 222号 巻頭言



夢を語るーストーリーテリングセンター(語りの広場)

愛媛県松山市光藤由美子


数年前、松山おはなしの会で長くともに活動し、みかん文庫をしていた友人が亡くなりました。その文庫に通っていた小学六年生の子どもが、語ってもらったお話や好きだった本を織り交ぜて紙芝居「文庫のおばあちゃん」を制作してくれました。子どもの心にお話や本、そしてそれを手渡してくれる人が、忘れられない大事な存在として深く刻まれていることを改めて、感じさせてくれました。大人から手渡された本やお話は、子どもの生きる力となって、未来につながっていくのだということ、私たちはそういう大事な種まきをしているのですね。残念なことに、文庫は閉じなければならなくなり、大切に集めてきた、選書された数千の絵本児童書の数々は、分散してしまいました。本に囲まれて、お話が語られてきた場所がなくなるということは、これから年老いていく私たちにとって心残りです。

イギリス、スコットランドのエジンバラには、ストーリーテリングセンターがにぎやかな通りの、十六世紀の建物の横にあります。ステージもある立派な建物は、二〇〇六年エジンバラ市、教会、企業寄付、宝くじなどの基金で設立され、エジンバラ芸術祭にも利用されています。またスコットランドのストーリーテリングについての情報や民話集など、手に入れることが出来ます。以前は、夏の間、プロのストーリーテラーがいて、ふらっと来た観光客にもお話を語ってくれました。

語り手たちの会は、昨年度四十周年の記念事業として、大きな夢と希望に向かって次の世代の語り手を育てるというイベントをこなしてきました。次はどういう方向に行くのか、私の夢想は続きます。語りを長く続けてきた私が描く一つの夢は、蔵書もあるおはなし広場のような語りのセンターがあればなあということです。語りや昔話関係の本が集められて、貸出(昔あった貸本屋でもいいかも)もでき、また購入もでき、本をそこで読むこともできる、文庫のような、語りの広場は、いかが?多くの方と未来の夢を共有できることを願って!


(みつどうゆみこ会員・松山おはなしの会)

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2018年08月02日

太陽と月の詩 221号 巻頭言

人間への贈り物「想像力」

東京都杉並区 池田香代子

三歳九カ月の孫娘が芝居小屋デビューをはたした。舞台に上がったわけではない。はじめて見物したのだ。

ちいさな劇場は、ハイハイの赤ん坊まで含めて、おさない観客でにぎわっていた。演し物は「赤ずきん」と「ブレーメンの音楽隊」。声優たちがパペットを操りながら、舞台いっぱい、にぎにぎしくストーリーを織りなしていく。

つまり、演者の全身が見えるわけだ。片手に装着した赤ずきんやろばの人形が口をぱくぱくさせ、声は演者が出す。このシステムというか、約束事を受け入れた上で、子どもはパペット芝居を楽しめるものだろうか。

そんな杞憂はすぐに消えた。おおかみが出てくると、孫はシートの上にうしろ向きに立ちあがり、背もたれをつかんで顔だけ舞台のほうに振りむき、いっしんに注視している。怖かったのだ。でも、おもしろくて目が離せないのだ。

ここで、わたしは自分の愚かさに気がついた。孫とはいつもお人形さんごっこをしているではないか。ふたりで人形やぬいぐるみのセリフを言いあいながら、架空のお話を楽しんでいるではないか。だったら、彼女がパペット芝居という様式を瞬時に理解しないわけがない。むしろおさない子どもはおとなよりも、虚実のあわいに立ちあがる演劇的なものに没入する能力に長けている、と考えたほうがいいくらいだ。

それにしても、演じられるストーリーを非現実とわきまえながら全身全霊で楽しむことができるというのは、ヒトという生き物に与えられた、いったいどんな恩寵だろうか。目の前の生身の人間や人形が架空の存在になりきって、こことは異なる世界に生きるさまを受けとめるというわたしたちの想像力には、あらためて驚きを禁じ得ない。しかもこの想像力は、言葉をおぼえたばかりのおさない子どもにすでにゆたかに備わっているのだ。

それは、演者からすれば、想像力というよりは憑依の問題なのかもしれない。物語を演じるとは、モノノケが乗り移ってカタルということだからだ。演者は、乗り移られて異世界に命を得る部分と、それを冷静にコントロールするこちら側の部分に分裂し、そのふたつの部分が最良のコラボレーションをするとき、成功を収める。

次は、孫をお話会につれていこうと思う。きっと、声だけで演じられる異世界を楽しむことだろう。ばぁばのお話は、まわりのおもちゃに気が散って、よく聞いてくれない。わたしの語りがへたくそ、つまり依り代として稚拙だということは措くとして。(ドイツ文学研究者・会員)

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